【音楽小説】ベートーベンとミストレス ~僕は聞こえない。彼女は見えない~ #05【バトル、バトル、バトル】『よっぱらいに絡まれる夜は一人でないからましなのか一人の方がましなのか正常な判断はそもそも酔っているのだからしようがない』
visibility1,613 edit2016.02.19
金曜日更新 もくじ
わりとここから読み初めてもイケマス。
さけがのめるさけがのめるさけがのめるぞー
#05、『よっぱらいに絡まれる夜は一人でないからましなのか一人の方がましなのか正常な判断はそもそも酔っているのだからしようがない』
指揮者の俺は事故に遭い、聴力の殆どを失った。
補聴器を身に着け、練習を見学した夜。
俺は新宿の居酒屋で一人飲んでいた。
「やってられっかいばかやろー!」
うぇーい、ヒック。
「おい、兄ちゃん、その辺で止めときな!」
ていっと、コップを居酒屋の店主に取り上げられる。
やすっぽい量産型のコップは日本酒が1cmしか減っていない。情けない事ではあるが、
あぁ~。ばたんきゅー。
だめだ。
ほんとにだめだ。
だめすぎる。
やってられなかった。
飲まずにはいられない。飲めないが。
いや、
飲めないが飲まずにはいられない。(のめなかったが)
うーん、酔っている。
コソコソと楽団の練習から抜け出した俺は、新宿の飲み屋街をぶらついていた。
あの後、しばらくはみんなの練習を見ていた。が、すぐに耐えられなくなった。
俺の代理、ショーンの指揮はうまかった。指導も的確で、オーケストラの心をがっちり掴んでいた。
『お前は終わりだ』という、ショーンの言葉はもっともだ。おそらくは、俺が彼の立場でも同じことを言うだろう。いや、音楽をやる人間なら、全員が思う。
お役御免。
事故で聴力が落ちた今、もはや俺は指揮者の責務を果たせない。
薄々は思っていた事だが、しっかりと理解できた。
代理なんてもんじゃない。俺の場所には、既にショーンがかっちりとはまっていた。あの楽団にはもう、俺はいらない存在なのである。
俺の居場所はもう、どこにもない。
どこにもないのだ。
「はいよ、水。たーんと飲みなぁ」
優しい店主だ。
カウンター越しに、お冷を出される。余程、顔が真っ赤らしい。
「あ……」
手が滑って、その水をこぼしてしまう。杉のカウンターテーブルに、水の染みが広がる。
なにやってんだ。
笑えてくる。
それと同時に泣けてくる。
「大丈夫かい?」と、見かねた店主が、いくつかのおしぼりを投げて寄越した。
「すみません」とお詫びを言いながら、零れた水をふき取る。
足元のカバンにも少しかかってしまった。
すぐに鞄中身を確認する。最悪だ。少し楽譜が濡れてしまった。
「お、兄ちゃんピアニストかい?」
楽譜が物珍しかったのか、店主が訊ねた。
「いや、俺は……」
言いかけると、
「なんや、音楽家くずれかいな」
俺の左手側。道路側に面した、店の入口の方に、同じようにカウンターに腰かけている誰かが、吐き捨てるように言った。
モスグリーンの外套とニットの帽子を着込んだ、おっさんという言葉がぴったりの中年男性だ。
「自分、ピアノ弾けんのか?」
「まぁ、多少は」
国内の大会で、軽く入賞できるくらいには弾けたりする。
「はぁー。やっぱりか。たまにこの辺にでるんだよ。負け犬の音楽家が……」
おっさんのボヤキに、「言い過ぎだよ」と店主が笑う。
おっさんはコートの中に手をつっこんで、ぽりぽりと皮膚を掻いた。
「お前、あれだろ? 自分に才能があるって思い込んで、行き詰った輩だろ?」
「ええ、まぁ」
「やっぱりな、顔見りゃ分かる」
その通りだ。間違いないのだが、見ず知らずの他人に言われると、さすがに不愉快な気持ちになる。
「しかし、お前は正解だ。行き止まりにあったとき、座り込む奴が一番ダメだ。雪山ならともかく、街中でじっとしてても始まらねぇ。おい若いの。お前は音楽家崩れの負け犬で、酒も飲めない女に捨てられてどうしようもない寂しい奴と見た」
ぐふっ。
グサグサと、おっさんの言葉が突き刺さる。不愉快を通り越して、へこむ。そりゃもう、水深五〇mに沈められたドラム缶のようにベコベコへこむ。
このおっさん、どうしてこんなに俺の事を指摘できるんだろう。しかも的確だ。これがいわゆる、年の功ってやつだろうか。あ、女に捨てられたは違うな。彼女なんて元からいない。もっとも、訂正すると更にめんどい事を言われるだろうから言わないが……。ぐすん。
へこんでいると、おっさんが近くに来て、俺の肩をバンバン叩いて慰めた。
「がぁっはっは!」
痛い、そして酒臭い。
「まぁヘコむなって、悪かった。言い過ぎたよ。今日は飲もう。いい店に連れてってやるから! な! ここの勘定も払ってやるよ」
「え、いや、俺はもう……」
「ええから、ええから!」
遠慮する俺を余所に、おっさんは店主に万札で支払う。引っ張られるようにして、店の外に連れ出される。
時間は、ちょうど、日が落ちたころだ。
「若いの、あれっぽっちで酔うなんて、とんだ下戸だな!」
「俺んとこ、酒に弱い家系なんで」
「はっはっは! 酒はダメか! じゃ、女だ! 最っ高の女がいる店に連れてってやんよ!」
ぶはぁーと、再度おっさんは酒臭い息を吐いた。
厄介なのに絡まれたなーと思いながら、俺の足も千鳥足。
週末の新宿は覇気のない客寄せと酒臭い息でごった返している。
靖国通りを居酒屋の呼び込みを避けながら歩く。歌舞伎町を通り過ぎ、申し訳程度に木々が植えられた、石畳の散歩道を往く。
道がどんどん狭く、あたりは閑静という言葉が似合うほど、静かになっていった。
古い飲食店の看板が立ち並ぶ。
さっきまでいた新宿の中心部より、ずっと暗く、低く、小さい、
どこか、懐かしい匂いのする飲み屋街だ。
ある地点で立ち止まり、
おっさんはフラフラと歩きながら、地下へ続く階段を下った。
階段を下りると、赤いペンキで塗られた、分厚いオーク材の扉が俺達を出迎える。
看板や店の名前などは見当たらない。
「ここは……?」
「都心から一番近い天国だ」
言って、おっさんが扉を押し入って行く。一瞬、中の音が聞こえる。
下界の音を遮断するかのように、分厚い扉が閉まる。
「…………」
おっさんが入った後、俺は一瞬躊躇する。
危険かもしれない。今が、唯一引き返せるタイミングだ。
夜の酒場で、ぼったくりの被害にあう。良く聞く話だ。新聞の記事でも見た。
ただ、
此処まで来て引くというのも気が引ける。
酔って判断力が鈍っているのかもしれないが、俺はドアノブに手を伸ばし、重く鈍い音のするドアを開けた。
瞬間、
(これは……)
補聴器越しに聞こえてきたのは、輝くような音の粒。
(ショパンだ)
演奏の音が聞こえてきた。
F.ショパン 練習曲 4番 OP.10/4
速い。かなりの高レベルだ。
店内を見渡す。
この店、ぶどうの樹はバーの様だった。
落ち着いた雰囲気。
長いバーカウンターに、四人掛けの机が数脚。
薄暗い店内は、地下にあるにしては間取りが広い。
どうやって運んだかは謎だが、店の奥、壁際にはピアノが備えつけられている。
アップライトピアノ。よく響く。
バーにピアノ。
もちろん、あっても別に不思議ではない。
BGMとして、ピアニストの生演奏があるのかもしれないし、近くにはJazzバンドが演奏できそうな小さなステージもある。
ただ、それにしたってこの場所の空気は少し異質だ。
その中心は彼。
ピアノに向かって演奏している男。
ネクタイを外した、Yシャツ姿の彼である。
ショパンのエチュード。酒の共として流すには、選曲が少々過激に思える。演奏も緊迫感に満ちていて、鬼気迫る様相である。
よくよく見れば、ピアノの隣に小さなテーブルが置かれ、その上に諭吉が三枚、裸で置かれていた。
視線をピアノからバーカウンターに向ける。
おっさんはすでにカウンターの真ん中に座っており、俺に向かって手招きをしていた。
おっさんの隣に座る。
「あの、ここは……」
「ただのBarだよ。普段は。今は違う。……マスター、ハイボール一つ。こいつはお子様だから、オレンジジュースな」
「かしこまりました」と、慣れた手つきでマスターがドリンクを用意する。
カウンターの端には下げたてのグラスがお盆に入って置かれている。
忙しいのかもしれない。
客層は、会社帰りのサラリーマン、カップル、初老の男……わりとランダムだ。よくよく見れば、空いている席はほとんどない。
皆、演奏に注目している。
落ち着いた酒場の様子とは、やはり少し違う。
リサイタル……、いや、この緊張感はまるで、ミスが許されないコンクールのソレだ。
店内の客も固唾を飲んで、演奏を注視している。
まるで、カジノのルーレットが回っているのを見守っているかのようだ。
しかしこの男、なかなかやる。
おそらくプロだ。
「上手いだろ?」
おっさんが煙草に火を付けながら言う。
「奴はな、若手の有望株だ。リサイタルのツアーを開いて、演奏は今が一番ノッている時期だな」
言われてみれば、演奏に聞き覚えがあった。顔も。
たしか、何カ月か前にショパンのエチュード集を出したはずだ。CDが家にある。
「相当弾き込んで来たんだろう。速度勝負にでたな」
たしかに、演奏のテンポはかなり早い。
よく指が回るものだと感心した。
演奏が終わる。
すぐに、店内に拍手が沸いた。
彼は、一瞬だけピアノの上に置かれた諭吉を見やる。
そしてすぐ、カウンターに座っている女に視線を向けた。
「だが今日も、勝てないだろうな」
言って、おっさんは口から煙を吐いた。
#06『コピーガール』に つづく
#04【腹黒】『代理指揮者 ショーン』←いっこまえ
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