【音楽小説】ベートーベンとミストレス ~僕は聞こえない。彼女は見えない~ #03【出会い】補聴器
visibility1,703 edit2016.02.05
「『日常』失って初めて、私はその重大さに気付いた」
~ある愚者の言葉~
3、『補聴器』
初老の医者は目の前で、口を動かした。
『××××、――×××で×』
『×××××××××。××、××××××××××××』
目の前で、
一文字一文字はっきりと口の輪郭を運動させている。
きっと、大きな声で話しているのだ。
けれど俺には、何を言っているのか良くわからなかった。
頭がぼんやりとして、言葉が認識できないという意味ではない。
本当に、聞こえない。
聞こえないのである。
これ以上に恐ろしい事があるだろうか。
事故の後、三日間の昏睡から覚めた俺は、奇跡的に外傷がなかった。
なんだ、ビビって損した。少年が助かって良かったと喜んだのは一瞬。
異常は、すぐに自覚した。
両親が持ってきた、ポータブルCDプレイヤーで演奏会の音源を聞こうとした。
繋いだイヤホンから聞こえてきたのは、当日の演奏ではなく、『ボォー』という、出向前の船が鳴らす汽笛の様な耳鳴りだった。
(……耳がおかしくなったかもしれない)
その可能性に思い至ったその時、俺は血の気が引いた。こめかみから何かジェル状の何かがにじみ出るような……、冬なのに嫌な汗がでて止まらない。鏡を見れば、真っ青だ。
心臓の鼓動が、バクバクとうるさいほどに脈打っている。
静まれ、何かの間違いだ、嘘であってくれ。
すぐにナースコールを押して、異常を伝えたところ、主治医が飛んできた。
一日を掛け、精密検査を受けた。一週間後、俺にはある診断が下された。
『事故原因による両耳突発性難聴の後遺症』
補聴器を付ければ、日常生活には差し支えがないものの、両耳の聴力は著しく低下しており、今後それが回復するか不明であるという事が分かった。
この世は、才能が全てだ。
耳が聞こえない指揮者。
耳が聞こえない声楽家。
耳が聞こえない弾き手
耳が聞こえない音楽家。
はは、
そんな事は見た事も聞いた事もない。
指揮者にとって耳は命だ。言うまでもない。
その器官が失われると言う事は、音楽家にとって死を意味する。
診断を受けた時、俺は目の前が真っ暗になった。
母親に支えられるようにして病室に戻った俺は、恐怖でベッドの上で震えた。
奇跡的に病状が回復することを毎日祈り、あるいは、次に目が覚めたとき、これら全てが夢で、都合の良い現実に戻ることを願った。
そして、
入院して三週間後。俺は退院した。
入院中、脳圧が下がり多少の耳鳴りは改善された。
しかし、失った、ほとんどの聴力は結局戻らなかった。
それはつまり、指揮者として、音楽家として、
柊卓人が終わった事を意味する。
◆
「いかがですか?」
「あ、聞こえます」
「左様でございますか。聞こえが大きすぎるなどはございませんか?」
「えっと、あーあーあー……」
自分でも声を出して確認してみる。
うん。
良い感じだ。もちろん、以前と同じようにはいかない。しかし、ほとんど聞こえなかった今までよりはずっと良い状態である。
「大丈夫です」
「ありがとうございます。初めての装着ですので、初めは違和感があるかも知れません。なにかありましたらこちらへ……」
「はい」
試着後、補聴器店の店員より細やかな説明を受ける。
精密機械の為、水場や睡眠時など、様々な制約があったが、高額な機械だ。ある程度は仕方がない。
「ありがとうございます、またご利用くださいませ」
補聴器店を出て、ファーストフード店に入る。
頭上から、流行りの音楽が流れていることを感じた。
何気ない音楽が、ちゃんと聞こえてくる。。
「いらっしゃいませー、ご注文はいかがですか?」
フィッシュバーガーのセットを注文する。
「お会計六四〇円になります。どうぞ、左に進んでお待ちください」
注文が無事に済み、安堵する。
耳に何かを詰めている違和感はあるが、『補聴器があれば、日常生活に難はない』という医者の言葉は本当だったようだ。
窓際でコーラをチューチュー飲んでいると、ポケットの中の携帯が振動していた。見れば、聖からのメールである。
そういえば、治療が落ち着いたら連絡するように言われていたのだ。
聖には、聴力が衰えていることをすでに伝えている。
通話履歴から聖の番号を選び出し、コールした。
#4に つづく
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