音楽小説 『ベートーベンとミストレス』 ~僕は聞こえない。彼女は見えない~ #15『彼への質問状 1/2』
visibility1,641 edit2016.05.27
音楽小説 『ベートーベンとミストレス』
小説もくじ
前回からの続き。
#14『彼への質問状 1/2』
「何かを得るためには、何かを失わなければならない」
こいつ(紫音)は、ただのコピー女ではない。
この女はまだ、恐ろしいほどの可能性を隠している。
そう思った、三曲目の曲が流れ始めた時、
彼女は呟いた。
「……これは弾けない」
「?」
モーツァルト、リストを完璧にコピーし、
盲目の少女が手を止めたそれは、ベートーヴェンのソナタだ。
演奏はバックハウス。
ベートーベン弾きで有名な、ドイツのピアニスト。
据え置きのラジオから流れる音質は悪い、録音が古いせいだろう。
「弾けない? 悲愴が?」
「そう、これは無理」
驚いた。『悲愴』は直前に弾いた、『ロ長調ソナタ』や昨晩のショパンに比べれば、遥かに難易度が低い。
弾けない理由を尋ねるも、分からない』の返事。
「そうそう。たまにあるのよねー、紫音ちゃんが弾けない演奏。私も何が基準かはさっぱり分からないけど……」
マスターが言うには、稀にあるらしい。特に古い録音に多いと言っていた。
つまり、バックハウスがまだ生きていれば、彼女に勝てるわけだ。
いや、そう決めつけるのは早計か。録音時のノイズが、拾音の邪魔をしているのかもしれない。
試しに俺が『悲愴』を弾くと、紫音は見事に俺の演奏をコピーして見せた。
(『悲愴』が特別という訳ではないのか……)
バックハウスが特殊なのだろうか。
そういえば、ロ長調ソナタは十分を超える。十分以内の曲でないとコピーできないという線もこれで消えた。
分かっていること。
この盲目のピアニストはどんな曲でもコピーできる。
けれど、コピーできない演奏がある。
それだけだ。
こうなると、何が弾けるかより、何が弾けないかが気になってくる。
ううむ……。
「今度は、何か好きに弾いてくれないか?」
方向を変えて、俺は注文をいれてみた。
「?」
しかし、盲目の少女は首を傾げた。
「好きに弾く?」
「ああ、コピーじゃなくて、お前の音楽を聞いてみたい」
「なにを弾くの?」
「なんでもいい、好きな曲を」
「好きな曲……」
たっぷり十秒ほど考えて、
「ない」
と、高らかに宣言。
「じゃあ、得意な曲」
「得意って何?」
「勝負曲だな。大事な場面、コンクールで選ぶ曲」
「ない」
「ないって……ピアノ弾きなら、得意なレパートリーの一つぐらいあるだろ? 思い出とかだな……」
「おもいでって何?」
「思い出ってのはだな、学校とか、人生の節目節目で感動した出来事とか経験だな……」
「経験……思い出……」
また、十秒ほど紫音は考えて。
「……ない」
相変わらずの無機質な声だった。
「ないって、どんな生活してきたんだよ」
あきれてる俺に紫音は、
「おきる、たべる、弾く、ねる」
飽きれるほどに簡潔な答えを返した。
「他には?」
「ない、それだけ」
「…………」
なんだよ、それ。
そんな人間がいるのだろうか。
「本当よ。私が知る限り、その子が女の子らしいことしてること、一度たりとも見たことないわ」
これまでの話を聞く限り、最も紫音に近しい人物はこのBarのマスターだ。
彼(彼女?)が言うからにはそうなのだろう。
「今の話、ひいた?」
マスターの言葉に、首を横に振る。
「むしろ、納得しました」
「あら?」
少し、予測はしていた。予期していた事だった。
「何かを得るためには、何かを失わなければならない」
「真理ね」
#[彼への質問状 2/2]に つづく
#[彼女への質問状]←いっこまえ
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