音楽小説 『ベートーベンとミストレス』  ~僕は聞こえない。彼女は見えない~ # 16.5『彼らの去ったあと』

音楽小説 『ベートーベンとミストレス』

小説もくじ

前回からの続き。

薄暗いバー
マスターは、フロアのモップがけを始めた。

これが、1日の仕事の始まりである。

モップを水入りのバケツにくぐらせ、水気を押し広げるように床を綺麗にしていく。

思い返すのは、先ほどまでそこにいた、青年の事だ。

優しい子(青年)だった。

彼は、出会ったばかりの見知らぬ少女を連れ、外の世界へと向かった。彼女の面倒を一日見てほしいという、マスターの願いを叶えるためである。

「若くって、才能があって、鋭気がある。現代っ子なんて、みんな冷たいもんだと思っていたけど……」

羽を痛めた、優しい小鳥。

それがマスターの彼に対する印象だった。

果てはトンビか、鷹に化けるか。

聴力にハンデを負ったらしい彼は、マスターに対し明るく言った。

怖くない。

力強い言葉だ。

けれど、おそらく彼は騙している。

(だって、あの時あなた、泣いてたのよ?)
マスターは明朝の、酔いつぶれた彼の呻きを思い出す。

小さな。それこそラジオから発生する雑音に過ぎないような、小さじ一杯の、か細い声で、

確かに彼は言ったのだ。

『たすけて』

――――――と。

 

 

 

 

 
そして、

「おはよう、マスター」

客がやってきた。

#[おもて]に つづく……。

#16[『彼への質問状 2/2』]←いっこまえ

 

アイキャッチ写真:フリー素材屋Hoshino

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