【音楽小説】ベートーベンとミストレス ~僕は聞こえない。彼女は見えない~ #09『狂気、蛮行』
visibility1,736 edit2016.03.18
小説もくじ
前回からの続き。
「弾きたくても弾けない辛さ、ピアニストならわかるはずだ」
#09、『狂気、蛮行』
間一髪。
酒瓶が少女の手に直撃する寸前、俺はそれを受け止める事ができた。
「待てよあんた! 自分が何をやろうとしてるか分かってんのか!」
俺の言葉に、目の前の男は更にヒートアップ、錯乱したまま振り乱して暴れる。
「るせぇ! 離せっ!」
俺を突き飛ばし、近くのテーブルで酒瓶を叩き割った。酒瓶の底が砕け散り、鈍器であった酒瓶は刺突用の刃物へと形態を変える。そのまま、酒瓶を両手で持ち、鋭利な部分を少女へと向けた。
「……ころしてやる」
今度こそ、店内の女性客が悲鳴を上げる。
俺は起き上がり、傍らのイスにかけてあったコートをつかみ、少女と男の間に割り行った。
「落ち着け、落ち着けって、なぁ」
「うるさい。僕が負けるなんて、認めない……ありえない……」
言葉の呂律が回っていなく、足取りも不安定。
おそらく、かなりのアルコールを摂取してきたのだろう。
危険だ。
照明に反射し、酒瓶の鋭利な部分がキラキラと輝く。
当然、あれに刺されたらただでは済まないだろう。
一瞬、おっさんが視界の端に映る。
おっさんは無言で、俺の目を見て頷いた。
男が、こちらへ向かって一歩、にじりよる。
靴の裏がガラス片を踏みつけ、ジャリ……という何とも嫌な音がする。
耳の裏で汗が滴る。
男が、飛びかかってこようと重心を前に落とした、
その刹那。
俺は、手に掴んでいるコートを男に向かって投げつけた。
「!」
コートが宙を舞う。
男がそれに気を取られた、一秒にも満たない僅かな時間。
その間……、男の背後から、おっさんと男性客の一人が男に飛びかかった。
「な!」
男性客が男に掴み掛り、全体重をかけ、男を押し倒す。男が押し倒された瞬間、おっさんは男から割れた酒瓶を奪い取った。合図もなしに、見事な連携だ。
押し倒された男はさらに振り乱して暴れ、少女へ少女へ向かってあらんかぎりの罵声を浴びせた。
「離せ、離せぇ! くそ。なんの苦労も知らないガキが! なにがパーフェクトだ! このパクリ野郎! コンクールにも出ていないズブの素人に、この僕が負けるなんて有り得ない! 壊してやる! お前を! その手を! お前を、お前をおおおおおおおおおお!」
あらんかぎりの声で男は絶叫し、呪詛の言葉を浴びせる。
そのあまりの声量は、彼の叫びは聴力が落ちた俺の耳でも充分に聞き取ることが出来た。
俺は、自分と少女がひとまず無事であることに安堵。
男は押さえつけられたまま、声にならない声を上げている。
俺は、ねじ伏せられた男へと近寄ると、彼の手を、手に取って眺めた。
「あ、…………!」
倒された男が息をのむ。腕や指を折られると思ったのだろうか。あるいは、砕け散ったガラス片で傷つけられるかと思ったのかもしれない。
それはそうだろう。
商売道具の、大切な手だ。
かけがえのない、ピアニストの手である。
「ひ、ひぃ……!」
怯え、青ざめる彼を余所に、俺はその手のひらをしげしげと眺め、握った。
「や、やめてくれ……」
「この手……」
サイズは成人男性の平均。
爪は丁寧に切りそろえられていて、指の先が丸く潰れている。
手のひらはずんぐりとしていて、
指の皮は厚く、プラスチックの様な硬い感触をしている。
俺は、彼を鑑定するように言った。
「ピアニストの手だ」
彼が、これまでの人生すべてを費やして弾きこんできた、両の手。その手に、彼の全てが刻まれている。
「ピアニスト。一般的なクラシック弾きは、幼少期、七歳までにピアノを始めなければならない。そこから毎日三、四時間。本格的に音楽家を志してからは、毎日六時間を練習にあてる。百の努力が、一か二しか報われない。ほかの連中が、勉強や部活、マンガやゲームをして遊ぶ時間の全てを費やす。そうした中の、一握りの人間が音楽の道を極め、コンクールで賞を取る」
「な、なにを言って……」
「……だが稀に、世の中にはその枠を越え、毎日十時間以上もピアノを弾くバカがいる。周りのライバルが百練習するところを千も万も練習し、爪の間から血が出ても、その爪が剥がれても、弾き続け、あげく指の形が変形しても練習を止めない音楽馬鹿が、稀にいる」
「…………」
「あんたの手は、その音楽バカの手だ」
「お前に何が分かる……」
「分かるよ、手は嘘をつかない」
地に伏せった男の爪。
とてもきれいな爪とは言わない。常に深爪し、硬く潰れていて、割れた後が残っている。
「あんたが怒る理由も分かるよ。必死に努力して、演奏して、マネされて、その努力が否定されたような気持になったんだよな。
けどな、音楽馬鹿はあんただけじゃない。あんたなら、あの子がどれだけ努力して来たか、分かるだろ? 漫画やフィクションの世界じゃないんだ。あんたに勝ったあの子も膨大な時間を訓練に費やしてきたよ、おそらくは、あんた以上に」
「あ…………」
「あんた、本当にその手を壊すことができんのか?」
「僕は……」
「弾きたくても弾けない辛さ、ピアニストならわかるはずだ」
「僕は……僕は……」
俺は言葉を続けようとしたが、おっさんは俺の肩に手を置き、『もう大丈夫だ』と首を横に振った。
呻く男に、おっさんは憐れむように声を掛けた。
「あんちゃん、その若いのの言う通りだ。あんたもピアニストなら、演奏で見返すべきなんじゃねぇのか」
「――――」
彼は完全に脱力し、それ以上何も言わなくなった。
おそらくは、もう大丈夫だろう。
おっさんと男性客が、ピアニストの男を連れて、店から出ていく。
その後姿を見ながら、マスターが自嘲気味につぶやいた。
「本当は警察に突き出すべきなんだろうけど、私たちも褒められたことはしていないからねー」
俺は、襲われた少女を見やる。
「…………」
彼女は、さきほどの蛮行にも拘わらず、無表情。
怯えた様子も、驚いた様子もなかった。
はじめは、肝が据わっているのかと思ったが、どうも違う。
まるで、この世のすべてに関心がないような表情だった。
彼女濁った瞳は、いったい何を映しているのか。
わからないが、
演奏の後に、ドンパチをやったのだ。俺も疲れた。
俺はテーブルに置いてあった、誰かのジュースを飲み干した。
『あれ?』
その瞬間。
視界が横転する。
「きゃー! あなた、大丈夫!」
「ニャー」
マスターの声と、猫の鳴き声を聞きながら、俺の意識は灰色の地面へと吸い込まれていった。
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