pokoの日記

仏法においては、

「一経の説に依よるに、一切衆生しゅじょうの心むねの間に八葉はちようの蓮華れんげ有り」(御書一五一五頁)

「我等衆生しゅじょう、法華経を持たもちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中きょうちゅうの肉団にくだんにおはしますなり。是を九識くしき心王しんのう真如しんにょの都みやことは申すなりり」(御書一三八八頁)

と、我々の生命に「八葉の蓮華」あるいは「九織心王真如の都」があると説いています。

これを、我々の身体に具体的に当てはめてみますと、「胸中」という位置や、「八葉の蓮華」という形状からいって、心臓のことを指しているものと拝せられます。ですから、心臓のところに我々の命を司つかさどっている大きな力があるということを、「八葉の蓮華」と言われたのでありましょう。

たしかに、脳は意識活動を司つかさどって、その人の個性・人格などを決定する重要な器官ではあります。しかし、仏法では、人間の生存を支えている大きな力が心臓にある、ということも指摘しているわけです。

そうして考えてみると、脳死状態になったとしても心臓が活動しているうちは、仏法上からも、その人が死亡したと断定することはできない、と思います。

また、これは稀まれな話ですが、臨死りんし体験をする人がいます。過去の歴史の中には、呼吸も脈拍みゃくはくも停止して死亡宣告を受けながら、丸一日経たって生き返ったという人もいます。その人が脳死状態だったのかどうかはわかりませんが、いったん死亡したものとされながらも、それから数時間後とか数十時間後に蘇生そせいしてきた人達が、現実にいるのです。

そうしたことからも、脳死となった時点で完全に死亡したものと断定することは、危険なことだと思います。

次に臓器移植の問題ですが、仏法においては、人が息を引き取り脈拍も停止して死に至った後も、それから数刻は、その人の生命がそこに留とどまっている、と説いています。その間は、周囲の話し声が聞こえていたり、あるいは、神経が過敏かびんな状態となって身体の表面に集まってきており、わずかな衝撃しょうげきでも重い石をドスンと落とされたような苦しみを感じる。だから、むやみと遺体にさわってはいけない、その人

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